環状線


 美術館に一人佇んでいる女性は美しく見える。本当は内面など見えないのに、知的な印象を強く受けるからだろう。それに、広く静かな美術館に響く彼女のヒールの音は、深い孤独を湛えている。そう想像させるだけの舞台装置の中に佇んでいる彼女は、知的で孤独で美しい。車を運転している女性も美しい。彼女の横顔だけが外部から見えるすべてだ。蟹股で、腹が太鼓のように膨らみ、足首がビール瓶の底のように太かろうが、それは密かに隠蔽され、車の美しい機能美だけが、彼女の身体を表象する唯一の手がかりなのだ。流体力学の粋を結集した曲線は、力強く且つ優雅に跳躍するカモシカの美しさだ。でも、残念ながら、美術館の彼女はいずれ街灯の下で隈の出来た目と皺の多い口元を晒すだろう。運転席の彼女は、やがて車から降りて短い足で重過ぎる体を引きずることになる。だからと言って、そんな舞台上の幻影に憧れることが愚かなのではない。憧れそのものが、いずれにしろ予め失われた夢なのだから。