Spinnaker Bay Drive


 「一次元の世界の住人にとって」と、ふと思い出したように彼女は話し始めた。
「そこは前と後ろという一つのベクトルしかない線の世界だから、点で遮られたらそこから先にはもう進めなくなるの」
 とても寒い11月の深夜だった。細くひょろりと背伸びしたようなその少女は、長い髪を赤い輪ゴムのようなバンドでポニーテールに纏めていた。白い息を両手に吐きかけた後、コートの襟を立てて横を歩く俺の腰に腕を絡め、細く長く続いた沈黙を取り合えずなかったことにして、ダッフルコートのポケットに別の方の手を突っ込んできた。月もなく雲もない夜空に無数の星が輝いていた。
「でも、横に広がりのある二次元の世界の住人にとっては、右か左に迂回すればそんな点は障害にさえならないのね。二次元は線から面へとベクトルが一つ増えるの」
「そんな面の世界の住人も、線で囲まれるとそこから抜け出すことはできなくなるの。ところが三次元の世界の住人はね、つまり私たちと同じ縦・横・高さという立体的な空間を持つ世界の住民は、その線の上をひょいと跨いで超えることができるの」
 薄暗い街灯が、閑静な住宅街の庭から伸びる葉の落ちた木々をぼんやりと照らしている。初冬の冷たい夜風を受けて耳がひび割れる様に痛い。傷ついた動物がそうするように、我々は体を寄せ合ってまるであてでもあるかのように深夜の住宅街を歩いていた。
「三次元の世界の住民は、つまり私たちと同じ三つのベクトルを持っている世界の住民は、もっともそれはあくまでも理論的な世界を仮想しているわけだから必ずしも私たちと同じ世界ではないんだけど、そこでは、これも比喩的に言うんだけど、扉も窓もない空間に閉じ込められたら、もうそこから逃げだすことはできないのね。でも、もう一つ別のベクトルを持った世界、つまり四次元の世界の住民は、そんな閉じた場所からだって鍵も扉もなくても簡単に抜け出せるはずなの。つまり、卵の殻を割らずに中身を取り出すことができるってわけね。」
 古臭い屋敷の垣根が途切れると、急に明るい光が眼下から溢れ出てきた。陸橋から見下ろす野沢通りには、深夜だというのにまばゆい車のヘッドライトの洪水が薄汚れた銀河のように流れている。それも一瞬のことで、陸橋を渡りきると校庭に沿う小道が続き、小学校の校舎を囲む木々に遮られて、再び薄闇と静けさが辺りを覆う。彼女は急ぎ足で俺を引きずるように金網の隙間から校庭に潜り込み、砂場に座り込んだ俺の周りを囲むようにスニーカーで線を描く。
 「二つの三次元の世界がどこかで交差していて、その境界面を超えると私たちは一瞬のうちに別の三次元の世界に滑り込むことができるの。つまりワープね。あそこに輝いている星は、何万光年も遠くにあるけれど、それでもそれは私たちの世界に属している。でも、アンタの隣にはもしかしたら全く別の世界に続く境界面が潜んでいるかもしれないし、ある日ふとした拍子にそれを超えてしまうかもしれないのよ」
 人気のない夜の運動場に遠い渋谷の明かりが木々の陰を投げかけていた。見上げると無数の星が降り注いでいる。俺はその場に横になってその星を見上げていた。それから、運動場の奥の用具置き場になっている納屋の裏のほうに眼をやった。そこには底の抜けた井戸のような暗闇が横たわっていた。彼女の言っていることはほとんど理解できなかったけれど、もし、彼女がそのもう一つの三次元の世界へすり抜けていったとしたら、俺は彼女を追って行くかなと想像する。もう二度とこちらの世界に戻れないとして、俺は彼女を追ってその世界に滑り込んで行くだろうな、そうぼくやり考えていたことを想い出す。今にして振り返れば、その時そのことを言葉に出して彼女に伝えることができていればどんなにか良かったかと思う。