荒野


久しぶりに夢を見た。

 桜上水か下高井戸のアパート。玄関の扉を開くとすぐに台所と四畳半の食堂が続き、その奥に六畳ほどの部屋がある。なんの変哲もない木造モルタルアパート。部屋の中にはなにもない。窓に掛けられたベージュのカーテンが陽の光を淡くぼかし、午前なのか午後なのかもわからない。そのカーテンにプラタナスの枝が影を落としている。壁には本棚もポスターもない。人の住んでいる気配がしない。その部屋の真ん中には蒲団が敷いてあって、俺はそこで眠っている。とても疲れている。女が俺を抱きしめている。俺は、頬に押し付けられた女の唇の生暖かい温度を感じている。が、あまりにも疲れているので目を開けることさえできない。私の唇の感触を忘れないでね、と女が耳元で囁く。もう行ってしまうのか?明後日は大事な日なんだけどなあ。朦朧とした頭で、言葉にならない問いを反芻する。あなたの誕生日ね、もちろんその日には戻ってくるわよ。女は言葉にならない俺の問いに、はっきりと応える。それはもちろん嘘だ。そして俺はその嘘にほっとしている。感謝の気持ちを伝えようと女の頬に俺の唇を当てようとするが、上手くいかない。全身に感じていた女の体が少しずつ、ゆっくりと離れていく。離れようとする女の腕をつかもうとするのだけれど、自分の手さえもう自由に動かせない。やがて俺はそのまま深い眠りに落ち込んでしまう。

 どのくらいの時間眠っていたのだろう?目を覚ますと、もちろん女はいない。カーテンの隙間から冬の橙色の夕陽が差し込んでいる。布団に残った僅かな温もりと菜の花の香りが、ようやくそこに女がいた事実を、残酷に俺に突きつける。さもなければ、夢と現の区別さえつかなかったはずだ。カーテンを開けると、外には荒野が広がっている。世田谷でも杉並でもない、遠い北の大陸の景色だ。俺は台所を通って外に出る。冷たい風が頬を刺す。ガランガランという金属音をたてて階段を降り、上水を覆う公園を散歩する。さっき窓から見た荒野はどこにもない。都下のありふれた住宅街の湿ったブロック塀は、冬なのに青いカビで覆われている。向こうから古い友人が歩いてくる。あの頃はとても親しく往来のあった友人なのに、今は目で認知の印を交わすだけだ。無言ですれ違う。数秒の間をおいて振り返ると、男が青いブロック塀の角を俺が今来た道の方に曲がって行くのが見えた。そうか、と思い出す。俺がさっき眠っていたのは、彼のアパートだったのかもしれない。俺はUターンすると、そのアパートの方にゆっくりと歩を向ける。公園を迂回して、そのアパートの窓が見えるプラタナスの小道の側に辿り着く。その窓から荒野が見えた方角だ。今は、甲州街道と中央高速の騒音がその小道まで響き渡っているだけ。その窓には人影が写っている。その人影がゆらゆらと揺れ窓辺に近づく。伸ばした手の影がカーテンを引く。

そこで目が覚めた。